下久堅の紹介

知久平城址(知久平内御堂)

 知久平という地名は、知久本郷から来ています。知久氏は鎌倉時代の初めから本拠をこの知久平に置きその勢力を張っていました。その後ご戦乱が続く中、知久氏は天嶮を拠点とする神之峰(上久堅地区)に城を築き常駐していましたが、天文23年甲斐国の武田信玄との戦に敗れ知久氏は一時滅びました。神之峰城の支城には、小林城・虎岩城・北原城・富田城・伊久間城・阿島城・等があり今もその城跡が見られます。
 知久平の地へ新しく城を築いたのは菅沼小大膳定利です。神之峰のような山城でなく、伊那盆地を一望できる平山城を築造されたのが、天正11年であったと言います。
 南北450m・東西170m、主廓と三つの廓、総廓、出廓を配した県下でも稀にみる壮大な城跡です。天文16年廃城となりますが、その間約400年この地の政治文化の中心地でした。この地に立てば、歴史の盛衰を肌で感じることができます。

・・・むかし誰か のりたる馬の くつわむし 
あれにし城に なきみたれつつ・・・
(知久平城址和歌から)

知久平城址


文永寺(南原区)

 文永寺は、鎌倉時代の文永年間に知久氏が創立したもので、たくさんの遺物を残しながら江戸期になっても伊那郡の最高の朱印地を持っていたところに特徴があります。天文23年武田信玄によって文永寺は焼き払われ神之峰が落城しましたが、醍醐寺理性院との関係を深めるなどして、天正11年文永寺再興普請が始まったと言われています。


 創立者は知久平に移り住んだ知久第1代の信貞とも2代の敦幸とも言われています。特に敦幸は、諏訪上社に普賢堂・五重塔・梵鐘等を寄進し、また文永寺の重要文化財の五輪塔を造立するなど諏訪大明神を崇拝し知久氏の威勢を偲ばせるものがあります。
 主な遺物としては、石造五輪塔及び石室、梵鐘、聖観音坐像・阿弥陀如来坐像等が管理保存されています。

文永寺五輪の塔


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