下久堅の紹介

下久堅の成立と発展

 下久堅地区は、人形劇とりんご並木の街「飯田市」のほぼ中央を流れる天竜川の竜東の河岸段丘に位置し、飯田市街地から凡そ7km、そこからは飯田市街地や中央アルプスが一望できる五味五色の農業生産物が豊かに実る中山間地域です。
 この地は、遠く鎌倉時代初期に諏訪神氏の一族「知久氏」が竜東一帯を知久郷とし、代々の知久氏は領民の経済・文化の振興をはかり、村歌に唄われる「南信濃の空広く・・・・いのちは若し土浄し、ああ清明の朝桜・・我らが郷土」下久堅のむらづくりの礎を築かれました。
 その知久氏も甲斐の武田氏の伊那谷への侵攻による戦いに敗れましたが、その知久平城址に立つと吹く風や流れる雲に、兵のどもの夢の跡として栄枯盛衰が偲ばれます。
 当地区の東西を走る古道の秋葉街道は、秋葉神社(静岡県)への信仰の道・物流の道・文化の道として人馬往来し、また天竜川を渡る知久平の渡舟場は、東西を結ぶ「かけはしであり、旅人達の滞留地となって賑わいもあったと言われています。
 時は経て当地区も明治維新の改革以降数度の集村離村を繰り返し、明治22年3月27日、現在の区域となり昭和31年9月30日飯田市に編入され今日を迎えています。中心地の標高は454m、面積12.23平方km、人口約3,100人で、東京と大阪のおよそ中間に位置し、「結い」が息づく温暖な土地です。
 当地区は、今後、三遠南信自動車道の開通やリニア中央新幹線の駅設置等によって生活や経済活動が大きく変貌すると思われます。
 豊かな自然や地域文化を大切に住みたい街、住んで良かった街となるよう地域挙げて取り組み、その実現を目指しているところです。


柿すだれ
(柿すだれ)

知久平城址(知久平内御堂)

 知久平という地名は、知久本郷から来ています。知久氏は鎌倉時代の初めから本拠をこの知久平に置きその勢力を張っていました。その後ご戦乱が続く中、知久氏は天嶮を拠点とする神之峰(上久堅地区)に城を築き常駐していましたが、天文23年甲斐国の武田信玄との戦に敗れ知久氏は一時滅びました。神之峰城の支城には、小林城・虎岩城・北原城・富田城・伊久間城・阿島城・等があり今もその城跡が見られます。
 知久平の地へ新しく城を築いたのは菅沼小大膳定利です。神之峰のような山城でなく、伊那盆地を一望できる平山城を築造されたのが、天正11年であったと言います。
 南北450m・東西170m、主廓と三つの廓、総廓、出廓を配した県下でも稀にみる壮大な城跡です。天文16年廃城となりますが、その間約400年この地の政治文化の中心地でした。この地に立てば、歴史の盛衰を肌で感じることができます。

・・・むかし誰か のりたる馬の くつわむし 
あれにし城に なきみたれつつ・・・
(知久平城址和歌から)

知久平城址


文永寺(南原区)

 文永寺は、鎌倉時代の文永年間に知久氏が創立したもので、たくさんの遺物を残しながら江戸期になっても伊那郡の最高の朱印地を持っていたところに特徴があります。天文23年武田信玄によって文永寺は焼き払われ神之峰が落城しましたが、醍醐寺理性院との関係を深めるなどして、天正11年文永寺再興普請が始まったと言われています。


 創立者は知久平に移り住んだ知久第1代の信貞とも2代の敦幸とも言われています。特に敦幸は、諏訪上社に普賢堂・五重塔・梵鐘等を寄進し、また文永寺の重要文化財の五輪塔を造立するなど諏訪大明神を崇拝し知久氏の威勢を偲ばせるものがあります。
 主な遺物としては、石造五輪塔及び石室、梵鐘、聖観音坐像・阿弥陀如来坐像等が管理保存されています。

文永寺五輪の塔


ひさかた和紙

 紙すきは、かっては下久堅の主要産業であり、「全村紙漉き成村」と言われていました。明治の始め頃には、多くの農家が紙漉きに関わりも持ち日当たりのよい庭先には紙漉き場が設けられ、農家の貴重な現金収入源でした。
 しかし洋紙の普及により和紙産業は衰退し、昭和36年の「三六災害」を堺に多くの農家が紙漉きを止められ、現在は1軒もありません。そんな伝統を、地域の貴重な文化として残そうと、かっての紙漉き農家の方々や公民館を中心に「ひさかた和紙保存会」を立ち上げ、和紙の里として保存活動を展開しています。
 又小学校と共働し、和紙の材料である楮やトロロアオイを栽培するとともに、児童が自分たちの卒業証書の用紙を自分の手で漉いています。
 和紙紙漉き体験場は、地区公民館(所在地・知久平内御堂)に隣接されています。

紙漉
(子供達の紙漉き体験)

獅子舞

 下久堅の各区には、鎮守の杜があってお祭りが行われています。お祭りと言えば獅子舞といわれ、明治から大正の初め頃には各区に獅子舞があって老いも若きも祭りの前夜まで練習を重ね、神社への奉納と集落内を練り歩き地区民の安寧を祈願したという。
 下虎岩区には「北原獅子」、「中組獅子」の二つの獅子舞があります。
 下虎岩区の獅子舞は、200年前から演じられていたといわれ、氏子衆は太鼓と笛の音そして舞いに酔いしれるのです。また屋台に付けられた花は縁起物であり、その花を大人も子供も欲しがり、いつ配られるかと獅子舞と行動を伴にするのです。ご覧頂きたいと思います。

北原獅子
(北原獅子舞)

七年一度の知久平諏訪神社「御柱大祭」(知久平宮の平)

 干支の寅と申年に知久平諏訪神社で「式年御柱大祭」が斎行されています。
 知久氏が鎌倉時代の「承久の乱」頃この地に移住した同時期に諏訪上社を勧請したと伝えられています。記録に残る天保元年からでも180年、知久氏の諏訪明神の尊崇を領民は引継ぎ「御柱祭」を斉行されて来たものと推測され、諏訪大社に追随する回数を重ねているものと思われます。
 昨年(平成22年)の御柱大祭は、フランス国シャルルビル・メジェール市(飯田市友好都市)からも30人余が来日され、里曳きに参加されるなど地域内外から大勢の人々が参加されています。
 次回は平成28年3月下旬となります。斉行の内容は「知久平諏訪神社御柱古今」(平成22年3月発刊)を参考としてください。

※里曳きの写真を入れる

水神納涼花火大会(知久平区主膳)

 2011年で第??回を数える水神橋納涼花火大会は7月末の土曜日に催行されます。
 毎回天竜川水神橋東の河原から打ち上げられる煙火が、真夏の夜空を赤く染め、川面に響き渡る大音響と息継ぐ暇もない大煙火に見物衆は魅了され歓喜を挙げるのです。特に天竜川を跨ぐ大滝煙火は見ごたえのある仕掛で、その壮大さにため息をつき、一時の静寂の後には大喝采となります。
 是非ご観覧いただきたいと思います。

水神納涼花火
(水神納涼花火)

水神納涼花火
(水神納涼花火・ナイアガラ)

ひさかたウォーキングのご案内

帽子をかぶり、歩きやすい服装、履きなれた靴、
お弁当・水筒・雨具・ハンカチ持って出発だ!
元気にゆったりと歩いてください。

下虎岩地区北部コース

巡回コース(所要時間・約90分)
下虎岩コミニテイセンター 〜 原の平・庚申 〜 橋場の石神 〜 亀平のお宮 〜 北原庚申群 〜 北原諏訪社(獅子舞) 〜 北原観音堂 〜 弁天様 〜 下虎岩コミニテイセンター

下虎岩地区北部コース

下虎岩地区南部コース

巡回コース(所要時間・約50分)
下虎岩コミニテイセンター 〜 舟渡岩・平岩(渡舟場) 〜 神明社 〜 学校発祥の地 〜 虎岩山常信禅院 〜 塚平古墳 〜 下虎岩コミニテイセンター

下虎岩地区南部コース